会計学に限らないが、学問を習得するには体系が大事だと学生時代に随分と言われた。
しかし、何が体系、体系的なのかは正直なところ今でもよくわかっていない。
柱になる考え方(仮定)があって、そこから分岐する枝のようなイメージ。
そんな体系のイメージはある。
しかし、私自身が特定の学問分野でそのイメージに沿う知識の習得ができているとは思えない。
会計学に果たして体系と呼ぶべきものはあるのだろうか?
いや、体系と呼ぶべきにたるものは、本当にできているのだろうか?
制度改変が激しい現在、特に体系について考えることは少なくない。
しかし、何が体系、体系的なのかは正直なところ今でもよくわかっていない。
柱になる考え方(仮定)があって、そこから分岐する枝のようなイメージ。
そんな体系のイメージはある。
しかし、私自身が特定の学問分野でそのイメージに沿う知識の習得ができているとは思えない。
会計学に果たして体系と呼ぶべきものはあるのだろうか?
いや、体系と呼ぶべきにたるものは、本当にできているのだろうか?
制度改変が激しい現在、特に体系について考えることは少なくない。
幼鳥がはじめに見た動くものを親と信じて疑わないように、学問に体系はあると信じて疑わなかった。
いや、疑う余地すらなかった。
しかし、果たして会計学に体系と呼びうるほどの一貫したまとまりはあるのだろうか?
そんなことをよく考える。
もちろん私の不勉強といわれてしまえばそれまでかもしれないが、それでも一般的な教科書の類は一般人(?)としては読んでいる方だろう。
ほとんど読んでいないとすれば、体系があるかどうかにも関心は向かない。
あると言われればあるのだろうし、ないと言われればないということになるのだろう。
もう「新」会計基準と呼ぶのは古いのかもしれないが、新たな会計基準が多数でき、その流れは今も変わらない。
新たにできた会計基準では新会計基準の導入以降に変更された取扱いが再び元に戻ったかのような変更がなされてもいる。
それまで原価評価だったものが時価評価される。
慣れ親しんだ繰延資産のいくつかは消え去った。
学習当初にはやや入りにくかった後入先出法も廃止される予定である。
これまでの取扱いがコロコロと変わる。
学習者も指導者も実務家も大変だ。
以前の我国の会計学は長い間、固定されていた。
それを懐かしむことしか今はもうできない。
しかし、思う。
そもそもその間ですら会計学に体系はあったのだろうか? と。
体系と呼ぶほどの有意なまとまりは本当にあったのだろうか?
いや、あったのかもしれない。
それが愚かな私にはわからなかっただけなのだろう。
体系があるにせよ、体系があるとは呼べないいびつなものしかないにせよ、学習者にとっても指導者にとっても忘れてはならないことが一つだけある。
それは仮に体系と呼ぶべきものがあったとしてもそれを丸ごと受け止めることなどできはしないということだ。
一つ一つの小さな知識をしっかりと受け止め、それを紡いでいく。
そんな地味な作業の積み重ねしかない。
体系がないのであればそれしか道はない。
体系があるにせよそれしか道はない。
道は一つしかないのだ。
(関連記事)
・つらぬくことが難しい
いや、疑う余地すらなかった。
しかし、果たして会計学に体系と呼びうるほどの一貫したまとまりはあるのだろうか?
そんなことをよく考える。
もちろん私の不勉強といわれてしまえばそれまでかもしれないが、それでも一般的な教科書の類は一般人(?)としては読んでいる方だろう。
ほとんど読んでいないとすれば、体系があるかどうかにも関心は向かない。
あると言われればあるのだろうし、ないと言われればないということになるのだろう。
もう「新」会計基準と呼ぶのは古いのかもしれないが、新たな会計基準が多数でき、その流れは今も変わらない。
新たにできた会計基準では新会計基準の導入以降に変更された取扱いが再び元に戻ったかのような変更がなされてもいる。
それまで原価評価だったものが時価評価される。
慣れ親しんだ繰延資産のいくつかは消え去った。
学習当初にはやや入りにくかった後入先出法も廃止される予定である。
これまでの取扱いがコロコロと変わる。
学習者も指導者も実務家も大変だ。
以前の我国の会計学は長い間、固定されていた。
それを懐かしむことしか今はもうできない。
しかし、思う。
そもそもその間ですら会計学に体系はあったのだろうか? と。
体系と呼ぶほどの有意なまとまりは本当にあったのだろうか?
いや、あったのかもしれない。
それが愚かな私にはわからなかっただけなのだろう。
体系があるにせよ、体系があるとは呼べないいびつなものしかないにせよ、学習者にとっても指導者にとっても忘れてはならないことが一つだけある。
それは仮に体系と呼ぶべきものがあったとしてもそれを丸ごと受け止めることなどできはしないということだ。
一つ一つの小さな知識をしっかりと受け止め、それを紡いでいく。
そんな地味な作業の積み重ねしかない。
体系がないのであればそれしか道はない。
体系があるにせよそれしか道はない。
道は一つしかないのだ。
(関連記事)
・つらぬくことが難しい
法学だと、規範があって、法的三段論法によって個々の事案を解決する。さらに、規範同士の階層構造というのも構築されていて、上位規範から下位規範が導出される。つまり、上から下まで演繹法一本でいくという方法論をとることが(よくも悪くも)法律学の「常識」として共有されているように思います。
これはこれで弊害があるのですが。「疑わしきは被告人の利益」「推定無罪」「刑法の人権保障機能」などの大原則を振り回しすぎたことで、法律屋が一般の国民感情から遊離してしまい、現在世論の大ブーイングを浴びていますが、これなどがわかりやすい「弊害」でしょうか。
個人的な感想を2点ほど述べますと
1つは、概念フレームワークが設定されたことで、会計学も、「体系性」「大原則」「演繹・帰納という論理方法論」などに関心が集まっているのではないでしょうか。少なくとも私は、あれを読んだ時に初めて「会計学」というものが少しわかった気分になれました。
2つめは、広く社会科学は、社会の変化に合わせてその体系も変化させていくべきものだと思っているので、新会計基準が乱立している今の状況というのにさほど違和感はないです(単に、私が「以前の我国の会計学」をよく知らない若輩者であるからかもしれませんが)。ただ、上記の刑法の人権保障機能のように、たとえ俗世間から遊離しようとも、専門家として断固主張しなければならない部分も当然存在するとも思います。
エラそうに長々と失礼しましたm(_ _)m