「中国人が足のあるもので食さないものといえば、イス(机か?)ぐらいだ」という話がある。
中国人の食に対する貪欲さを皮肉った笑い話であるが、広大な中国であるが故にいかにもありそうだと感じてしまうのは、私だけだろうか。
事の真偽はともかくとして、広大な中国の食文化の一端をあらわしていることに間違いはないだろう。
かつて、「日本人とユダヤ人」というタイトルの本を読んだことがある。
恥ずかしながら内容はまるで覚えていないが、「イザヤ・ベンダサン」というふざけたペンネームだけはよく覚えている。
日本人とユダヤ人の文化を比較したものとするなら、きっと中国人が食に貪欲であるがごとく、ユダヤ人が金銭に貪欲であることも書かれているのだろう。
話は変わるが、クライアントに高齢の米国婦人がいる。
日本語は話せるものの、書く事はできない。
片言の日本語からの私の印象は、おしとやかな貴婦人といったところだろうか。
その婦人が娘さんを伴って事務所にみえたことがあった。
仕事の話を済ませ、報酬を受取る段になって、紙幣を最後まで数える私の姿をみて、その婦人は、云った。
「あら、ユダヤ人は、最後の一枚は数えないのよ」
そういいながらなんの屈託もなく笑うのである。
娘さんも一緒になって笑っていたものの、私は、何のことをいっているのか咄嗟にはわからなかった。
そんな私の様子をみて、婦人が説明してくれたところによると、最後の一枚をわざわざ数えなくても最後の一枚があることは見ればわかる、もし、残りが二枚あれば、自分が得をするので、ユダヤ人は、最後の一枚をわざわざ数えることはしないのだそうだ。
この話が、「中国人が足のないもので食べないものはイスくらいだ」という話が中国人の食に対する貪欲さを示すものであるのと同様に、ユダヤ人の金銭に対する貪欲さを物語る笑い話だということに気付くのに若干の時間がかかった。
そして、その大きな原因は、ユダヤ人云々というよりも、むしろその婦人に対して私がもっていた「おしとやか」という印象とのギャップにあったのかもしれない。
金を受取る時に最後の一枚を数えないユダヤ人、ユダヤ人は金に汚いといって笑う米国人、そして、それにまるで気付かない日本人。
金に色がなく、それが世界を駆け巡る以上、金銭感覚についての標準を知っておく必要はあるのかもしれない。
さて、世界の標準は一体どこにあるのだろうか。
中国人の食に対する貪欲さを皮肉った笑い話であるが、広大な中国であるが故にいかにもありそうだと感じてしまうのは、私だけだろうか。
事の真偽はともかくとして、広大な中国の食文化の一端をあらわしていることに間違いはないだろう。
かつて、「日本人とユダヤ人」というタイトルの本を読んだことがある。
恥ずかしながら内容はまるで覚えていないが、「イザヤ・ベンダサン」というふざけたペンネームだけはよく覚えている。
日本人とユダヤ人の文化を比較したものとするなら、きっと中国人が食に貪欲であるがごとく、ユダヤ人が金銭に貪欲であることも書かれているのだろう。
話は変わるが、クライアントに高齢の米国婦人がいる。
日本語は話せるものの、書く事はできない。
片言の日本語からの私の印象は、おしとやかな貴婦人といったところだろうか。
その婦人が娘さんを伴って事務所にみえたことがあった。
仕事の話を済ませ、報酬を受取る段になって、紙幣を最後まで数える私の姿をみて、その婦人は、云った。
「あら、ユダヤ人は、最後の一枚は数えないのよ」
そういいながらなんの屈託もなく笑うのである。
娘さんも一緒になって笑っていたものの、私は、何のことをいっているのか咄嗟にはわからなかった。
そんな私の様子をみて、婦人が説明してくれたところによると、最後の一枚をわざわざ数えなくても最後の一枚があることは見ればわかる、もし、残りが二枚あれば、自分が得をするので、ユダヤ人は、最後の一枚をわざわざ数えることはしないのだそうだ。
この話が、「中国人が足のないもので食べないものはイスくらいだ」という話が中国人の食に対する貪欲さを示すものであるのと同様に、ユダヤ人の金銭に対する貪欲さを物語る笑い話だということに気付くのに若干の時間がかかった。
そして、その大きな原因は、ユダヤ人云々というよりも、むしろその婦人に対して私がもっていた「おしとやか」という印象とのギャップにあったのかもしれない。
金を受取る時に最後の一枚を数えないユダヤ人、ユダヤ人は金に汚いといって笑う米国人、そして、それにまるで気付かない日本人。
金に色がなく、それが世界を駆け巡る以上、金銭感覚についての標準を知っておく必要はあるのかもしれない。
さて、世界の標準は一体どこにあるのだろうか。
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