中島敦という作家をご存知だろうか。
漢学の素養豊かな昭和初期の作家である。
彼の作品には、中国の古典に材をもとめたものが多い。
時代背景は、もちろん今とは異なり、現在ではもちろん、昭和初期の当時でもその設定にやや奇異な観はあったといってよいかもしれない。
「山月記」という小説では、主人公はなんと虎になってしまう。
虎になるからには、その理由はあるだろうが、やはり、突飛との印象は、拭えない。
しかし、その奇抜さを感じさせないのが作家の力量なのだろう。

「名人伝」は、弓の名人と呼ばれた主人公の物語である。
主人公は、弓の名人を志し、師のもとで修行するが、弓を射る前に、なんと五年もの歳月を費やす。
瞬きをしないことに二年、視ることに三年である。
まことに気の遠くなる話ではあるが、修行の甲斐あってか、主人公の弓の腕前は、ついには、師を凌駕するほどに達し、さらなる弓の達人を求め、一人の老名人にたどりつく。
そこで主人公がみたものは、弓も矢も持たずに空を舞う鳶を射るという「不射の射」の境地であった。
まさか弓も矢も持たずに鳥を射ることなどできる訳はないとも思うのだが、人が虎になるより可能性は高いのかもしれない。
「名人伝」はここで、終わる訳ではなく、最後にもう一波乱あるのだが、紹介はここまでにしておこう。

そういえば、「電卓名人」や「そろばん名人」というのは聞いたことがあるが、「簿記名人」は聞いたことがない。
名人という呼称が似合うものとそうでないものとがあるような気はするが、その違いは、よくわからない。
仮に「簿記名人」がいたとしたら名人は、一体何をやってのけるだろうか。
「名人伝」の主人公は、弓も矢も持たずに鳥を射落とす境地に至ったのだから、さしずめ電卓もペンも持たずに問題を解くというのが簿記の名人だろうか。
しかし、これではあまりにも非現実的過ぎる。
電卓を持たずに計算するというのであれば、これは暗算に過ぎないし、せいぜいが難しい仕訳でも瞬時に頭の中できれるというくらいしか思い浮かばない。
私は、問題を解かずに、問題を解けるようになるというのがひそかに「簿記名人」ではないかとも思っているが、みなさんにとっての簿記名人とは、一体どんな人物だろうか。