税理士試験 簿記論 講師日記

税理士試験 簿記論、財務諸表論、簿記検定の問題、学習方法等をアドバイス。

雑文

大きなバツの思い出

あきらめない事の本当の意味を知るのは案外と難しい。
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試験前後のある出来事

例年、試験前後に受講生から学習の経過や試験の結果のご報告をいただく。

今年ほど、記憶に残る年はない。
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学びが起動する日

資格試験だけでなく、教育にも若干かかわっている。

内容は簿記だが、やる気のある者に高度な内容を教えるのとやる気のない者に初歩の内容を教えるのとでは、圧倒的に後者が難しい。

学びは簡単には起動しない。
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受からない国家試験はない

もう随分と昔の話になるが、学生時代の恩師の言葉が今でも耳に残る。

「受からない国家試験などない。」

当時は半信半疑だったが、今ではその意味がよくわかる。
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2点の差

今では原価計算って何?という情けない状態ですが、これでもいちおう日商一級を持っています。

もう合格証書はどこかにいってしまいました。

もしかすると幻かも。

どんな問題を解いたかを思い出す糸口さえ見つけられません。

しかし、それでも今だに忘れられない記憶があります。
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体系はあるか?

会計学に限らないが、学問を習得するには体系が大事だと学生時代に随分と言われた。

しかし、何が体系、体系的なのかは正直なところ今でもよくわかっていない。

柱になる考え方(仮定)があって、そこから分岐する枝のようなイメージ。

そんな体系のイメージはある。

しかし、私自身が特定の学問分野でそのイメージに沿う知識の習得ができているとは思えない。

会計学に果たして体系と呼ぶべきものはあるのだろうか?

いや、体系と呼ぶべきにたるものは、本当にできているのだろうか?

制度改変が激しい現在、特に体系について考えることは少なくない。
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質より量に学ぶために必要なこと

はてブ(はてなブックマーク)の人気エントリーに「質より量に学ぶ」という記事がありました。

ある陶芸クラスでのこと。

クラスを二つのグループに分けて別々の評価基準で評価することにしたそうです。

一方のクラスは、「質」のみを評価する。

とにかくいいものをつくれと。

もう一方のグループは、「量」のみを評価する。

とにかくたくさんつくれと。

結局、もっとも質の高い作品は、すべて「量」のみで評価するグループから提出されたものだったそうです。

ちょっと実際には、いろいろ考えさせられますが、とりあえずは、簿記にもあてはまりそうです。

まずは問題解けっちゅうことですね。

いや、でもちょっとだけ蛇足を。

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つらぬくことが難しい

最近、理論の学習方法についてよく考えます。

税理士試験の出題傾向は以前と比べて明らかに変化しています。

「知識の量」を問う出題から「知識の質」を問う出題への変化です。

もっとも試験科目等によりその度合いなんかは異なります。

公認会計士試験(財務会計論)の傾向の変化は税理士試験よりも大きいです。

税理士試験の税法も昔と随分変りました。

法人とかビックリです。

税理士試験の財務諸表論では基礎的な知識もきかれますのでわかりにくいですが、やはり変ったなあと思います。

その傾向の変化をどう受け止めるかは大事でしょう。



かつて私が受験時代に指導を受けていたことのある講師は簿記で覚えることは一つもないと言い切っていました(「講師の講師の言」)。

残念ながら私はまだその境地に至っていません。

でも、財務諸表論の理論で与えられた文章をまるごと覚えるという時代は終わったとはいえます。

もちろん厳選された素材や会計基準を覚えるほどに読み込む必要はあります。

しかし、用意された解答を文章のまま覚えるのは長期的にみればかえって効率が悪いことが今ではよくわかりますし、出題傾向はそんな勉強法を示唆していません。


うーん。言いたい。

いや、言っちゃえ。


「財務諸表論の理論を覚えてはいけない」


いや、言っちゃった。


ではどうすればいいのか?

それは簡単ではありません。

画一的な方法(対策)はないといってもよいかもしれません。

しかし、本当に難しいのはおそらくはそれをつらぬくことです。

方法を模索することが難しいのではなく、覚えないことをつらぬくこと。

つらぬくことこそが難しい。

それができるか否か。

一つの分岐といえるでしょう。

ある会話

先日、書店で立ち読みをしているとアベックの会話が耳に入ってきました。

いや、別に盗み聞きをしていたのではありません。

簿記のコーナーの前で、ごく自然な声での会話です。


「でも、負債ってむずかしそう!!」


ちょっと衝撃的でした。

ふ、負債が難しいとすると資本(純資産)は?

収益や費用は?

そもそも簿記はどうなんだろう?

もしかすると向いてないかな。

そんな事を思わずにはいられませんでした。


それに答える彼氏のさり気ない言葉が妙に的を得ていました。


「えっ!負債なんて簡単じゃん。だって、借金だよ。借金。ああっ。○○(彼女の名)って借金嫌いだったね。」


やはり実体験にもとづいて考えることができない事柄は、簿記に限らず「遠い」存在かもしれません。

できるだけ具体的に考えることがその距離感を縮めてくれます。

でも、やはり限界があります。

学生さんはすべからく社会経験がありません。

会社などで経理実務に携わっていなければ実務経験もないでしょう。

それでも簿記を学ぶ必要があるなら実体験にかわる武器を身につける必要があるのかもしれません。


みなさんにとって、負債はむずかしい?

それとも簡単?

どちらでしょうか。

1万回の減価償却

思えば、今までにいったい何度の減価償却の計算を行ったことだろうか。
簿記検定受験時代から、税理士試験受験時代、そして受験指導にまわった現在。
これは全くの感覚に過ぎないが、少なくとも1万回は超えているのではないかと思う。
いや、5万か。
いや、数はいいか。
どうにも証明のしようがないし、また、その必要もないが、もし、カウンターがつけられるならつけておけばよかったと後悔している。

受験指導を行っていなければ、つけられたかもしれないカウンターが大きく増加することはなかっただろう。
実務的に減価償却の計算を行うことはもちろんあるが、実際に電卓を入れるという機会は極端に少ない。
パソコンがやってくれるのである。
専用のソフトはもちろん、表計算という便利なソフトもある。
私が計算するよりもよほど正確だ。


受験時代に同じような計算を何度も繰り返す意味はあるのかとの疑念に強くかられたことがある。
特に理論をかじってからはその思いが強くなった。
もちろんいろいろな出題形態はあるだろうし、応用的な論点もある。
減価償却の計算がない総合問題の方が珍しいかもしれない。
どう考えても減価償却の計算が不要な筈はない。
おそらくは同じような償却計算をただ繰り返すことに、ただ、辟易していたのかもしれない。


減価償却の本質は、取得原価の利用期間への配分にある。
しかし、あらかじめ決められた方法での償却計算をいくら行っても、減価償却が費用配分であることの意味はみえてこない。
償却計算のみをいくら行ってもおそらくは減価償却の本質はみえない。


繰り返す意味はある。
しかし、繰り返すのみでは、みえないこともあることは心得ておくべきといったところだろうか。


(関連エントリー)
質より量に学ぶために必要なこと

失われたメッセージ

それほど数多くの本を読んでいる訳でもないので、あまり断定的な事もいいずらいが、すぐれた小説や随筆には、必ずしも直接的な表現ではあらわされることのない言外のメッセージが込められている場合が少なくない。

小説や随筆の場合とでその在り方は異なるだろうが、簿記の問題にも、表面からは見えてこないメッセージが込められている場合がある、と思う。
以前にご紹介した公認会計士試験の過去問(「最強の過去問」参照)には、あまりにも鮮烈なメッセージが込められていた。
そのメッセージへの賛否の判断はひとまず置くとしても、そのメッセージに作問者の熱い思いが込められていることは想像に難くない。
そしてその思いはこれまでの長い研究・教育生活を経て形成された筈のものであり、一朝一夕で簡単に変るとは到底おもえない。
問題に込められたメッセージが鮮烈であればあるほどその感は強くなる。

昨年、一昨年の簿記論の第二問には、それが共鳴することができるかどうかはともかく、強いメッセージが込められていたと思う。
それは、テクニックに走り、時としてその本質を見失いがちな受験生、いや、指導する側に向けられたものであると少なくとも私は感じていた。
だからこそこのブログでも過去2年の第二問をじっくりと分析もした。
しかし、蓋を開けてみると出題はいたって平凡なものだった。
標準よりも難易度は低く、量も少ない。
いや、難易度や量の問題ではない。
メッセージの欠落こそが問題なのだ。
少なくとも今年の第一問からは過去二年の第二問に含まれていたのと同質のメッセージは見えてこない。
その事については、今でも釈然としないが、メッセージは果たして失われたのだろうか。

少なくとも今年の第一問をみる限り、メッセージは失われたか、全く異質のメッセージが込められていたかのどちらかとしか思えない。
前者であることは、考えられない。
とすれば後者ということになろうが、そうでないことをただ祈りたい。

「かなもの屋はなぜ潰れないのか?」

「いやあー、高い買い物しちゃったよ。うまいんだよな、一生もんだってよ。」

そういいながらオヤジさんは、屈託のない笑顔をみせた。
還暦を過ぎたとは思えない艶のある顔に無念さはない。
話を聞けば、ちょうど「さおだけ」が壊れ、たまたま近くを通った「さおだけ屋」からかなりいい値段で「さおだけ」を買ったらしい。
スチール製の方が持ちがよく、そちらを勧められたが、高い買い物をしたかなというのが冒頭の言である。
オヤジさんというのは、クライアントの一人で、付き合いは、長い。
今から、数年前の出来事である。


遅ればせながら会計の入門書としては爆発的なヒットを飛ばしている「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」を読んだ。
公認会計士である山田真哉氏の手になる会計の入門の書である。
著者は「女子大生会計士の事件簿」なる小説シリーズも著しており、その着眼には、感服する他はない。
身近にある素朴な疑問を会計の基本的な考え方に結び付け、簿記会計の知識のない人にもそのエッセンスを伝えるに十分な内容に仕上がっている。
どこかの簿記ばっかとは大違いである(でへ)。

「さおだけ屋は果たして商売として成り立つのか」という疑問から同書は始まる。
「さおだけ屋」が果たして商売として成り立つのか、そしてそれが会計とどう関係するのかは、実物をご覧いただだくとして、私は、読み進めるにつれてオヤジさんの件が気になってしかたがなくなってきた。
同書によれば、必ずしも商売として成立しそうもない「さおだけ屋」が存在していられるのも実業としての「かなもの屋」の副業として成り立っているかららしい。
そして実際に「さおだけ屋」から「さおだけ」を買ったという人物もそれほど多くはないようなのである。
つまりは、それほど珍しいケースにオヤジさんは遭遇した訳である。

いや、私が気がかりなのは、「さおだけ屋」から「さおだけ」を買ったという体験談を聞いた事ではない。
その聞いた本人、オヤジさんの職業が問題なのだ。
そう、「かなもの屋」なのである。

「かなもの屋はなぜ潰れないのか?」
いや、
「かなもの屋は本当に潰れないのか?」
そんな微かな疑問が、ふと脳裏をよぎった。

二人の投資家

イチローや松井の大リーグでの活躍を見るたびにアメリカは、懐の深い国だと思う。
自国出身者ではない選手に惜しみない賞賛を与える。
もちろんそれは実力に裏付けられた華麗なプレーや記録に対して与えられるものであって、誰しもがその誉に浴する訳ではないだろう。
自国出身者の記録にこだわっているとしか思えない日本とは、比べるまでもないといったところか。

そんな懐の深い国、アメリカにタイプの異なる二人の投資家がいる。

一人は、ジョージ・ソロスという大手ヘッジ・ファンドのファンド・マネージャーである。
ヘッジ・ファンドとは、少数の投資家の資金を運用する基金で、ファンド・マネージャーは、その運用担当者にあたる。
大手のヘッジ・ファンドの資金規模は、極めて大きいらしい。
どのくらい大きいかというと東南アジアの一国の通貨を売り浴びせ、その国を通貨危機に陥れたことがある程である。
もちろんその国の規模もあるのだろうが、一国と対峙し得る資金規模は、私には、想像もつかないくらいに巨額な筈だ。
このような行為が、道義的な意味で問題がないのかといえば、さすがに首をひねらざるを得ないが、そんな彼が、アメリカを代表する投資家(投機家?)というに相応しい気がするのもまたアメリカという国の懐の深さ故なのだろうか。

もう一人がウォーレン・バフェットである。
ソロスとは対照的に、バフェットは、「超」の文字がつくほどの長期投資家である。
バフェットは、自らで投資先の企業の発売する商品を確かめ、企業の業績を実際に数字で確認し、割安と判断した株式のみを長期間にわたり保有するというまるで、株式投資の教科書に出てきそうなスタンスを続け、巨万の富を築いた人物である。
アメリカ株といえば、ハイテク株を連想するが、バフェットは、自らが仕組みのわからないものには一切手をださず、ハイテク株を所有していない。
もちろんパソコンをいじる程度の知識はあるようだが、実際の製品やサービスについて自らの目で確かめることができない以上、株式を買うこともないというのがその理由なのである。

二人の投資家には、投資に対する大きなスタンスの違いがある。
少なくとも「どちらも」アメリカを代表する投資家であることに間違いはないだろう。
それでもあえて問うとすれば、やはりアメリカを写す投資家は、ソロスだろうか、それとも、バフェットなのだろうか。

ユダヤ人と日本人

「中国人が足のあるもので食さないものといえば、イス(机か?)ぐらいだ」という話がある。
中国人の食に対する貪欲さを皮肉った笑い話であるが、広大な中国であるが故にいかにもありそうだと感じてしまうのは、私だけだろうか。
事の真偽はともかくとして、広大な中国の食文化の一端をあらわしていることに間違いはないだろう。

かつて、「日本人とユダヤ人」というタイトルの本を読んだことがある。
恥ずかしながら内容はまるで覚えていないが、「イザヤ・ベンダサン」というふざけたペンネームだけはよく覚えている。
日本人とユダヤ人の文化を比較したものとするなら、きっと中国人が食に貪欲であるがごとく、ユダヤ人が金銭に貪欲であることも書かれているのだろう。


話は変わるが、クライアントに高齢の米国婦人がいる。
日本語は話せるものの、書く事はできない。
片言の日本語からの私の印象は、おしとやかな貴婦人といったところだろうか。
その婦人が娘さんを伴って事務所にみえたことがあった。
仕事の話を済ませ、報酬を受取る段になって、紙幣を最後まで数える私の姿をみて、その婦人は、云った。

「あら、ユダヤ人は、最後の一枚は数えないのよ」

そういいながらなんの屈託もなく笑うのである。
娘さんも一緒になって笑っていたものの、私は、何のことをいっているのか咄嗟にはわからなかった。
そんな私の様子をみて、婦人が説明してくれたところによると、最後の一枚をわざわざ数えなくても最後の一枚があることは見ればわかる、もし、残りが二枚あれば、自分が得をするので、ユダヤ人は、最後の一枚をわざわざ数えることはしないのだそうだ。

この話が、「中国人が足のないもので食べないものはイスくらいだ」という話が中国人の食に対する貪欲さを示すものであるのと同様に、ユダヤ人の金銭に対する貪欲さを物語る笑い話だということに気付くのに若干の時間がかかった。
そして、その大きな原因は、ユダヤ人云々というよりも、むしろその婦人に対して私がもっていた「おしとやか」という印象とのギャップにあったのかもしれない。

金を受取る時に最後の一枚を数えないユダヤ人、ユダヤ人は金に汚いといって笑う米国人、そして、それにまるで気付かない日本人。
金に色がなく、それが世界を駆け巡る以上、金銭感覚についての標準を知っておく必要はあるのかもしれない。
さて、世界の標準は一体どこにあるのだろうか。

ある事件の波紋

もう、数年も前の話になるが、簿記検定絡みである事件が起きた。
新聞でも取り上げられたので、別に伏せる必要もないとは思うが、必ずしも事件そのものをどうこういいたい訳でもないので、どの検定かは、伏せておくことにしよう。
簡単にいえば、問題漏洩事件である。
問題の内容が漏洩し、その漏洩を受けた当事者のその事実を書いた手紙が検定実施日よりも前の日付の消印で主催者側に届いというのが事件のあらましである。
これに慌てた主催者が、弁護士をたてて内部調査まで行ったものの、結局は、漏洩はなかったという発表を行ったことで、事件は幕を引いた。

漏洩が現実にあったかどうかはわからない。
あったのかもしれないし、なかったのかもしれない。
ただ、事実関係だけを考えると、その回の合格率は極めて低いものであった。
問題が新規の内容・形式を含んだとても難しいものだったからである。
もし、漏洩があったとするなら、その誘因として、問題の難しさはあったかもしれない。
難しさというよりも形式の急激な変化といった方がよいのかもしれないが。

私自身、その回の少し前くらいから、傾向の変化は感じていた。
出題がどこか今までにない形式を含むようになっていたのである。
また、直前の回と内容の近い出題も行われるようになったが、その検定では、それまで長い間なかったことだった。
問題の漏洩事件があった回の出題が、そのような変化にもっとも富んだ出題だったといってよいだろう。

ちょうどこの頃から検定試験や国家試験に出題の狙いやポイントといったものの公表がみられるようにもなった。
出題の簡単な意図を公表することの狙いは、とてもよくわかる。
どのような学習をして欲しいのかということの出題者側(主催者側)の表明でもあるのだろう。

検定試験である以上、きまりきった処理ができればいいし、問題にそれほど変化をつける必要はないという意見もあるだろう。
しかし、あまりに定型的な解法を身につけることでよしとする受験生に対し、このままではいけないのではないかとの危機感を感じているという意見を耳にすることも少なくない。

その後、その検定試験の合格率は、蛇行を続けている。
その余波を簿記論が受けたという訳ではないだろうが、簿記論の合格率も今までにない変化をみせた。
検定試験と国家試験では、事情は、もちろん違うだろうし、出題者も一人という訳ではない。
税理士試験の簿記論では、4人の出題者が三問の出題をするのであるが、果たして出題者は、何を思い、そしてどのような出題を行うのだろうか。
簿記論の出題者が、検定試験での漏洩事件の事を知っているかどうかはわからない。
しかし、その漏洩事件(本当にあったかはわからないが)の誘因となった事実に、思いを馳せているであろうことに間違いないのではないだろうか。

「名人伝」

中島敦という作家をご存知だろうか。
漢学の素養豊かな昭和初期の作家である。
彼の作品には、中国の古典に材をもとめたものが多い。
時代背景は、もちろん今とは異なり、現在ではもちろん、昭和初期の当時でもその設定にやや奇異な観はあったといってよいかもしれない。
「山月記」という小説では、主人公はなんと虎になってしまう。
虎になるからには、その理由はあるだろうが、やはり、突飛との印象は、拭えない。
しかし、その奇抜さを感じさせないのが作家の力量なのだろう。

「名人伝」は、弓の名人と呼ばれた主人公の物語である。
主人公は、弓の名人を志し、師のもとで修行するが、弓を射る前に、なんと五年もの歳月を費やす。
瞬きをしないことに二年、視ることに三年である。
まことに気の遠くなる話ではあるが、修行の甲斐あってか、主人公の弓の腕前は、ついには、師を凌駕するほどに達し、さらなる弓の達人を求め、一人の老名人にたどりつく。
そこで主人公がみたものは、弓も矢も持たずに空を舞う鳶を射るという「不射の射」の境地であった。
まさか弓も矢も持たずに鳥を射ることなどできる訳はないとも思うのだが、人が虎になるより可能性は高いのかもしれない。
「名人伝」はここで、終わる訳ではなく、最後にもう一波乱あるのだが、紹介はここまでにしておこう。

そういえば、「電卓名人」や「そろばん名人」というのは聞いたことがあるが、「簿記名人」は聞いたことがない。
名人という呼称が似合うものとそうでないものとがあるような気はするが、その違いは、よくわからない。
仮に「簿記名人」がいたとしたら名人は、一体何をやってのけるだろうか。
「名人伝」の主人公は、弓も矢も持たずに鳥を射落とす境地に至ったのだから、さしずめ電卓もペンも持たずに問題を解くというのが簿記の名人だろうか。
しかし、これではあまりにも非現実的過ぎる。
電卓を持たずに計算するというのであれば、これは暗算に過ぎないし、せいぜいが難しい仕訳でも瞬時に頭の中できれるというくらいしか思い浮かばない。
私は、問題を解かずに、問題を解けるようになるというのがひそかに「簿記名人」ではないかとも思っているが、みなさんにとっての簿記名人とは、一体どんな人物だろうか。

バケツのプリン

何がきっかけだったかは記憶にないが、学生時代に友人とハンバーガー10個を水なしで食べられるかという賭けをしたことがある。

それもどちらがということではなく、私が食べられるかである。

今にして思えば随分と一方的な気もするが、おそらく私がいつもの調子で「そんなの簡単だ」位の軽口を叩いたのかもしれない。


本当に簡単だと思っていた。

学生時代は、経済的ゆとりもなかったし、ハンバーガーを腹いっぱい食べることなど想像もできなかった。

1個や2個のハンバーガーで空腹は満たされない。

当然、その時は、「食える」と思っていた。

しかし、実際に実行してみるとこれが食えないのである。

これも今にして思えばあたりまえの話だが、食える訳がない。

でも、何故か食えると思っていた。



知人に子供のときからプリン(いやゼリーだったか)が好きだった輩がいて、曰く、大人になったらバケツ一杯のプリンを食うんだと思っていたという。

私にはプリンにそれほどの思い入れはないが、きっと、とても思い入れのある食べ物だったに違いない。

そしてどうやらそれを実行したらしいのだ。

ただ、結末は聞いていない。

いや、聞くには聞いたのだが、ただ、苦笑いを浮かべるだけなのである。

あまり突っ込んで聞くのも大人げないと思いあっさりと引き下がったが、どうやら自分の想像とは大きくかけは離れていたらしい。

最後まで食べられなかったか、あるいは、食べるには食べたのかはわからないが、いずれにせよ幼少の時代に恋焦がれたバケツのプリンではなかったようだ。



今では曲がりなりにも簿記を指導する私にも受験時代に恋焦がれた「バケツのプリン」がある。

それは、「簿記の問題」である。

たくさんの難問をスイスイと解いてみたいと思った。

そしてスイスイといったかは別にして、実際にも多くの問題を解いたと思う。

そして、合格し、今では、それを人に伝えてもいる。

正直にいうと「今」も「バリバリと問題を解いていた受験時代」も問題を解くのが好きだったのかといわれると、答えは否である。

その意味で、私にとっての簿記の問題(を解けること)は、やはり、バケツのプリンだったのだと思う。

ただ、私にとって幸いだったのは、「バケツのプリン」は「簿記の問題」や「簿記の問題を解くこと」であって、「簿記」そのものではなかったということであろうか。

消えた「サイト」

私が受験指導をはじめてからとてもお世話になった資格試験に極めて有用だと思えるサイトが少なくとも二つ消えている。


一つは、資格専門学校の講師が個人で運営していたサイトでかなり著名な方のものであり、心構え的な事が多かったように思うが、たいへん参考になった。

印象に残っているのは、「信じてはいけない」、「疑え」という二つの短い言葉である。


「信じてはいけない」という言葉は、とても刺激的だった。

勉強方法等についても、結局は、他人の方法を参考にしつつも自ら考え、実践し、自分にとってのよりよい方法を模索する以外にない。

他人の方法をそのまま横すべりさせる事が、時として有害ですらある事を体験的に語るその言葉は、力強かった。


「自分も含めた講師ですら疑え」という言葉には、おそらくは自らの指導力の高さと、その背後にある小さな努力の積み重ねの裏付けが垣間見えた。

正しい知識といえどもそれを単に鵜呑みにするだけでは決して本当の意味での力にはつながらないのだろう。



もう一つのサイトは、税理士資格を有する方がやはり個人で運営していたもので、各科目ごとの攻略法等とても充実したサイトだった。

トップページに花火があがっていたり、クイズ形式の出題があったり、隅々に細かい工夫が凝らされていて、見ているだけで心が和んだ。

どこかの活字だけのサイトとは大違いである(←ほっとけ)。

個人が自分の学習した足跡を公開の場に残すことは少なくないが、ここまで充実したサイトを他には知らない。

とても腰が低く、受験生の質問に丹念に答えているその言葉は、やさしさに満ちていた。


二つのサイトは今はない。

サイトが消えた理由をはっきりとは知らないが、残念というよりも、寂しい。

いずれも資格試験の受験生向けの個人サイトであるという以外に共通点はないものの、独自性のある素晴らしいサイトだったと思う。


このサイトはもちろん無くなることを前提に運営している訳ではないが、形ある以上、永久にある訳でもないだろう。

消えた時に寂しいと思ってくださる方はいるだろうか。

サイト開設から約一月。

そんなことをふと想った。

文章という名のハードル

文章力(国語力といってもよい)が、簿記の出来、不出来に影響するかといえば、私はかなりの程度で影響すると思う。

おおざっぱな印象でいえば、簿記以外の国語力で10点や20点は違うのではないだろうか(あくまでも答練ではなく、本試験の話である)。

とはいえその点数の開きを埋めるような国語力はそう簡単には身につかないし、簿記の指導に小説を読んだり、作文を取り入れる訳にもいかない。

そもそも付け焼刃の指導で、それほどの効果が見込めるとも思えない。

それでも私は、簿記以外の本を読むことが「簿記にとって」ムダだとも思わないし、例えばブログで日々あった出来事を記録する事や新聞の社説か、コラムあたりをまとめるなんてのも実は有効ではないかとすら思っている(簿記一科目に限った対時間効果は低いが)。



簿記の具体的な指導でも文章は大事にしたい。

もちろん理解の過程で、図や表といったビュジュアルを用いることも大事である。
理解なしの記憶では、定着率が低すぎる。

それを反復でこなすには、「簿記論」一科目といえども膨大な時間が必要であろう。

簿記の学習上、ビジュアルが不要という訳では、もちろんないのはわかっている。

しかし、結局、問題は、文章で出題される。

実際の試験では、状況を図解してくれることもないし、普段は、表形式で整理されているものが、文章で出されたりもする。

問題を読み解くには、文章の力が不可欠なのだ。

普段の学習で余りにビジュアルにたより過ぎると実際の試験(専門学校の答練ではない。

本試験である)での「文章のハードル」はより高くなってしまうのではないだろうか。

しかし、そのために別途の時間を割くことができないならば、せめてテキストや普段解く問題、そしてこのブログくらいはしっかりと読みたい(ほりょ)。

このブログがほぼ文章のみで構成されているのは、決して管理者のパソコンスキルの問題ではない(ほーっ)。

このブログには、このような深い意図が背後に隠されているのである。多分(た、多分かい)。

みえない「象」をみる努力

象。

あの鼻の長い象である。

誰もが知っている象ではあるが、象を知らぬ幼子に象がいったい何であるかを伝えるのはおそらくは難しい。

もちろん、実物を見れば「ああ、これが象なんだ」と実感するだろうし、映像や写真を見せても象についてのイメージはわくだろう。

しかし、動物園に行った事もなく、映像や写真、絵などでも象を見たことのない幼い子に、言葉だけで、象がどんな動物かを伝えるのは想像以上に難しい事ではないかと思う。


これは必ずしも簿記に限ったことではないが、抽象的な概念を理解する営みは、みえない象をみようとする行為に似ていると思う。

みえないという前提のもとでは、いくら目を凝らせても象について何もわかりはしない。


鼻が長い。


大きい。


尻尾は小さい。


等々、小さな情報を一つずつ積み重ねていく以外にないのである。


簿記では、企業の経済活動という極めて具体的な出来事を扱う。

簿記の基本的な仕組みや金額の計算も極めて具体的である。

しかし、よく考えてみると、その中で扱われている資本、費用、収益などをとってみても実際には、極めて抽象的な概念であることがわかる。


資本とは何かを定義することも簡単にはできないし、ましてやこれが資本だと目に見える形で示すことなどできはしない。

具体的な出来事を扱う簿記であるが、その中には、多くの抽象的概念がある。


急いでも仕方がない。

何しろみえないのだからゆっくりといくしかない。

「週刊少年ジャンプ」を読む技術

もうかなり以前の話になるが、「週刊少年ジャンプ」という少年マンガ雑誌を継続的に読む必要にかられた事がある。

昔とった杵柄とばかりに勇んで読んでみたものの、予想に反してまるで読めない。
これにはかなり驚いた。

間違いなく読めていたハズのものが読めないのである。

理由はいくつかあるのだろうが、マンガを読むのに「技術」がいるらしい事に気付いた。

「技術」というのが大げさなら「慣れ」でもいい。

学生時代にマンガを読んでいたときには、そんな事など考えもしなかった。

ただ、純粋に面白いから読んでいたのである。


そういえば学生時代に「日本経済新聞」を読もうとしてもなかなか読めなかったことを思い出す。

もちろん目で活字を追ってはいるのだが、内容がまるで頭に入ってこない。

一言でいうと面白くない。

それが社会人になり、いつの間にかごく自然に読むようになっていた。

関心(興味)の問題はあるのだろう。

しかし、それ以前に「ジャンプ」を読むにも、「日経」を読むにも技術(慣れ)が必要らしいのだ。


「ジャンプ」も「日経」も読めないときに無理にでも読む事でやがては慣れ、必要な程度には読めるようになっていった。

おおげさにいえば、その技術を習得したから読めるようになったのだろう。

読めないときに読むことをやめてしまえば、読めるようにはならない。

簿記の学習も同様だろう。


学生から社会人へと立場を変えた今、「日経」は読んでいるが、「ジャンプ」は読んでいない。

仕訳力

やはり簿記で重要なのは仕訳をきる力、「仕訳力」ではないかと思う。

瞬時に仕訳が思い浮かぶか否かが、問題を解く上でも極めて重要だろう。

ただ、やみくもに仕訳がきれればいいのかというと必ずしもそうではない。

5区分(資産・負債・資本・費用・収益)を自然に意識し、一体、何が行われているのかの意識があって仕訳をきる習慣が身についていれば、見たことのない取引でもそれなりのアプローチができるのではないかと思う。

「何か」があった。

それを一定のルールで記録するのが簿記なのだ。

その「何か」を簿記的に捉えられているかどうかが重要なのであって、必ずしも勘定科目名や仕訳そのものが重要なのではない。


とはいうものの入口(簿記の初歩、初めて学習する項目)の段階では、ある程度は勘定科目や仕訳を覚えるという感じにはならざるを得ないかとは思う。

しかし、勘定科目を覚えて、仕訳をきれることのみでよしとする学習のみを続けていけばいずれは急減速してしまう。

これを避けるためには、仕訳を単に覚えるのではなく、仕訳を行う力、仕訳力をつけるようにこころがける必要があるのではないだろうか。


簿記の学習の上で仕訳力が重要であると言うのは簡単だが、件の簿記講師に、受講生に仕訳力をしっかりと身につけてもらうだけの指導力があるのかは、甚だ疑問である。

講師の講師の言

今でも鮮明に記憶に残っている。

「簿記で覚えることは一つもありません」

私が受験生だった当時の講師が初回の講義の冒頭で開口一番に発した言葉である。

講師の声は自信に満ちていた。


資産の増加(負債の減少)が借方に記入されるというルールは覚える以外にない。

それ以外は覚えること、暗記する事などないというのが、その講師の持論であった。

資産・負債、資本、費用、収益の増減の記録については、全く逆の体系があり得る。

これは覚えるしかない。

しかし、それ以外は、簿記以前の常識的なことや商法等の規制等を除けば、覚えることなどないというのだ。


その講師の言が全面的に正しいのかどうか私にはわからない。

むしろ、一方的な結論を押し付けるべきではないとも思う。

おそらくは、その講師の言は、安易な暗記に頼り、むしろ出口を見失いがちな受験生に対して向けられた刺激に満ちた警句ととるべきなのだろう。


あれから随分と時が経った。

それ以来、件の講師には会っていないが、今も同じ事を言っているのだろうかと、ふと考えることがある。

私はといえば、未だ自信も持てずに、「簿記で覚える事は一つもない」とは言えないままでいる。

「ばっかり食べ」と「ばっかり解き」

食事をする時にご飯ならご飯、おかずならおかずという具合に同じものばかりを続けて食べる食べ方を「ばっかり食べ」と言うらしい。
おかずを食べてはご飯、ご飯を食べたらおかずにいきつつ味噌汁、なんてのが、日本人かと思っていたが、最近はそうともいえないようだ。
カツ丼のカツだけを先に食べ、後で残ったご飯だけを食べる。
そんな食べ方をする若者も少なからずいるらしい。
「ばっかり食べ」を解消するための「三角食べ」という必殺技もあるそうだ。
まあ、口の中にいれてしまえば、結局は同じだろうから健康に影響があることはないだろうが、日本の食文化が急激に変りつつあるというのは、事実なのかもしれない。

「ばっかり食べ」の良否の判断は、ひとまず置くとして、簿記の問題を解く場合はどうだろうか。
同じ分野の問題を続けて解く「ばっかり解き」は、実は、かなり効率がいい。
特に基礎的な講義の後や苦手項目について、この「ばっかり解き」を意識して行う効果は小さくない。
ただ、効率のいい「ばっかり解き」というのは、学習の進度等の個別事情によっても異なるといってよい。
苦手意識のある項目は、同じ「ような」問題ではなく、「同じ」問題を解く必要もあるだろう。
答えを覚えてしまうほど解いてもしっくりしない問題については、別の「何か」が欠けている可能性が高い。
その「何か」を浮き立たせてくれることと短期間で繰り返すことによる定着が「ばっかり解き」の効用ではないかと思う。
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       <管理人の記事掲載号>  会計人コース2011年9月号-                  会計人コース2008年02月号                  会計人コース2008年01月号                  会計人コース2007年09月号 <管理人の本>
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